「八田與一(はったよいち)」この名前を聞いて、知っているという人は日本人ではどのくらいいるのでしょう?しかし驚くべき事に、台湾人にこの人を知っているかと聞くと、大抵は知っていると答えます。
台湾では歴史の教科書にも必ずこの名前が出てくるくらい、有名な人なのです。
八田與一さん。写真はwikipediaからお借りしました☆
かくいう私も台湾に来るまでは、恥ずかしい事だけど彼の存在を全く知りませんでした。その後彼の成し遂げた偉業を知る事になり、今でも台湾人に愛される八田與一という人がどんな人物だったのかという事を初めて知りました。今日は少し真面目に台湾の歴史について、台湾人に愛される日本人「八田與一」という人について、紹介したいと思います。
ハイヒールさんが司会を務める番組で紹介された事もあり、下記番組からの抜粋です。(youtubeには動画もありますよ☆)→
コチラ
あと、もうひとつ、世界を変える100人の日本人でも紹介されていました→
コチラ
1895年、日清戦争に勝利した日本は台湾を治めることになった。日本政府は国内の食料不足を補うため、台湾の農業政策を強化することにした。しかし台湾一大きな嘉南平野は水事情が悪く、乾季には全く雨が降らず、雨季には洪水になるという、まさに不毛の地であった。
そこに日本からダム建設のため、土木技師として派遣されたのが八田與一その人だった。
「ダムに最適な場所はここ、鳥山頭地区(うさんとうちく)です。ここになら大規模なダムが作れます!」
八田が提案したのは当時世界にも類を見ない大きさで、平野全体を潤すことのできる規模のものだった。
「こんなの不可能だ!もう少し規模を小さくしなければ!第一予算がない!」
「それでは水量が少なく、平野全体に水がいきわたりません。その場しのぎでは駄目です!農民たち全体が豊かにならなければ作る意味がありません!」
工事費用は最大で台湾総督府の総予算の三分の一という費用がかかる。金額的にも規模もあまりにも大きすぎ、誰もが再現は不可能と思っていた。しかし小さなダムでは全員に水がいきわたらず、格差が生まれてしまう・・・彼は何度も計画書を練り直した。
3年後、苦労が報われ、ダムの建設の許可が下りた。但し費用の半分は現地の農民たちが担う、という条件付で・・・。
「どうしてわしらが金を出さなければならないんだ?!」
「第一こんなの本当に作れるのかも疑わしい。絶対に無理だ」
地元住民は当然の事ながら大反対であった。しかし八田はダムの必要性を必死で説く。
「ダムが出来れば必ず豊かになります。皆さんの子供や孫たちの世代が安心して暮らせるようになるんです!」
必死で説得し、どうにかダムの建設工事は始まった。工夫の数は日本人、台湾人合わせて2000人にも及んだ。しかし鳥山頭は山の中にあり、労働環境は決してよいとはいえないものであった。
「工夫が家族と住める宿舎を作ってください。家族と離れ離れでは彼らはよい仕事等できません!」
しぶる上層部を説得し、現場の近くに小さな町を作った。 そこには学校や病院、娯楽場なども充実したものだった。いつも辛い作業をする工夫、その家族をねぎらう為、とにかく心配りをすることを忘れず、いつも上からではなく、常に同じ目線で接していたという。そんな彼の姿に台湾人の工夫たちも、次第に八田に心を開くようになっていった。
しかしそんな1932年、日本で関東大震災がおき、ダムの建設費用が大幅にカットされることになってしまった。そこで上層部が提案したのが「台湾人工夫の半分を解雇し、作業を続ける」というものだった。
ところが・・・・意外にも八田が解雇したのは多くの日本人であった。 自分たちが解雇されるとばかり思っていた台湾人工夫たちは八田に尋ねた。
「どうしてわしらじゃなく、日本人を解雇したのですか?わしらは自分たちが解雇されるとばかり・・・」
「当然です。日本人は日本に帰れば仕事がある。それに将来このダムを使うのはあなた達なんですから。」
この出来事があり、工夫たちはこれまで以上に八田を信頼するようになった。
しかしそんなある日、ダムの現場で爆発事故が発生し、死亡者50人以上、負傷者100人以上という犠牲者を出してしまった・・・。
八田は遺族一人一人の家に走り、土下座をしてお詫びをした。
「申し訳ございません!あなたのご主人を殺したのは私です!」
そんな八田に遺族から返ってきたのは、温かい言葉だった。
「八田さん、どうか頭を上げてください。主人はダムの仕事を誇りにおもっていました・・・。主人の思いを果たすためにも、どうか立派なダムを作ってください。」
彼らも自分と同じ思いを持っていてくれた・・・家族にもその思いを語ってくれていた・・・この思いを・・・絶対に無駄にでは出来ない!
「必ず!!必ずダムを完成させて見せます!!!」
多くの仲間を失いつつも、残された人は力を合わせて作業を続け1930年、10年の歳月を経て、東洋一の大きさを誇る烏山頭ダムが完成したのであった・・・。
不毛の地といわれた嘉南平野はこうして穀倉地帯へと生まれ変わったのであった。
その後、八田は台湾総督府に復帰、太平洋戦争中の1942年、陸軍の命令で部下と共に大洋丸に乗船したが、五島列島付近でアメリカ海軍の潜水艦に撃沈され、生涯を閉じた。享年56歳であった。その後1945年、妻の外代樹(とよき)も夫の後を追うように、鳥山頭ダムの放水口に投身自殺をした。
八田夫妻の墓はダムが見える丘の上に立てられ、今でも花を手向ける人が絶たない。また毎年彼の命日には慰霊祭も行われている。
お墓の前には八田の銅像も立てられています。腰を下ろし、右手で髪の毛をいじる姿。彼が生前考え事をしている時やイライラしている時、また怒りだす前にこの仕草をしていたそうで、こういう時は部下はうわぁ・・・怒られるかなぁとヒヤヒヤしていたんだそうです。笑
この銅像、実は戦時中ずっと行方不明になっていました。実は嘉南農業水利会の2階の事務所にずっと隠されていたのだとか。なぜかというと戦時中に武器を作るため、金属を国に提出する必要があった為、どうにか守りたいという住人の協力でずっと隠されていたのだそうです。
そもそも日本統治が終わった時点で、日本人をあがめるこんなものを隠していた事がバレたら罪に問われる可能性も大いにあった中で、それでも守り続けたという姿勢に八田への思いがひしひしと感じられます・・・。
さて、この烏山頭水庫ですが、台湾に住んで5年、私はまだ一度も行ったことがない!そしていま私が台湾で一番行きたい場所なのです。というわけで、来月友達とここに行こうと計画中♪記念館等もあるそうで、今からとても楽しみにしています☆また行った時は旅行記もアップしたいと思います☆
本日はいつものふざけた内容とは違い、真面目なけろつぶでした。
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